趙将軍、あなたが 好きですー・・・

      二度と聞けない、その言葉。

      どうしてあの時 あんなことを 言ったのか

      後悔が澱となり 深く 深く 心を埋めて行く。

 




         澱


 

 


       その時、私は一向に良くなる気配のない戦況にらしくなく苛々としていた。
      曹嬰は強い、何よりも心が。
      その強い心に私の弱い心は今にも押しつぶされそうで、ひっきりなしに叫ぶ心の悲鳴が頭蓋の中で反響する。
      誰にも参っている姿は見せられない、曹嬰の精神を揺さぶってくる策に兵達は相当参っている
      このうえ命を預けている指揮官まで渋い顔をしていては余計事態は悪くなるばかりだ。
       シクリ、と傷む脇の傷より心が痛い。それにこの傷だけが熱く、今日も生きている事を実感させてくれる。
      手当などいらない。優しい言葉など要らない。
       強く、もっと強くなりたいー・・・。
      グッと唇を強く噛んで立ち上がる。矢傷が露見してから常に椅子に座るよう言われているがいてもたっても
      いられなかったのだ。
      「子龍!」
      側にいた兄上に腕を引かれて椅子に戻されそうになる。それを強く腕を振り払いのけた。
       私を売ったくせに!蜀を売ったくせに!!本当は私のことなど売名行為の駒の一つとしか思っていないくせに!!
      きつく睨みつけると泣きそうな目で気遣わしげに私を窺う兄上の顔がそこにあった。
      「あぁ、・・・・・すみません、兄上。」
      「いや・・・」
      駄目だ、兄上にあたる等なんと狭量なのだ。兄上の苦悩を知っていながら長年気付かぬ振りして手を差し伸べなかったくせに
      いざ裏切られるとこうして恨むなんて。兄上に私を売らせたのは私なのだ、兄上は今もこうして己の過ちと
      戦い辛い思いをしている。
      誰が彼を責めても、私だけは彼を責めてはいけない。
      「少しー・・・外の空気に当たりたいのです。」
      さぞや私は蒼白な顔をしているのだろう、兄上はうろたえた後、泣きそうな顔のまま、小さく何度も頷き許可をくれた。
       冷え切ってギシギシと動く指を開き穴だらけの鳳鳴城の扉をそっと押し開けると吹き込んできた風に乗りちらつく雪が
      頬に当たり、すっと溶けた。
      寒さなど感じなかった、感じるのは傷の熱さだけ。なのに外に出てきた私を見つけ、慌てたようにケ芝が駆けつけてきて
      自分の上着を私に掛けた。
      「どうかされたのですか将軍、お体が冷えますどうぞ中にー・・」
      「兵達の様子が知りたかっただけだ、少し見回ったら戻るから」
      正直今は放っておいてほしかった、一人になりたかった。だが心配性なケ芝は共をすると言って聞かなかった。
      あぁ、もう・・何一つ願う通りに行かない。苦しい。だがこれ以上拒むと逆に心配をかけて中に連れ戻されかねない。
      「すきにしなさい。」
      「・・・−はい」
      私の気持ちがわかったのか、視界に入らないよう後ろを歩き一言も口を開かなかった。その事がまた心を重くさせた。
      ケ芝は私の心の汚いところまで気付いているのではないか、全て投げ出して誰も知らない地に行きたいと願っている事を。
      それにまた気を使わせてしまった、優しい彼を邪険に扱い忙しいだろう彼をこうして心配させて私の気まぐれに
      付き合わせてしまっている。
       居たたまれなくなり、私は兵を見て回ると言った舌の根が乾かぬうちに人気の無い城の裏手へと早足で歩く。
      ケ芝は何も言わずにただ歩を合わせて静かに着いて来る。私は更に歩を速めた。ケ芝も速める。
      「−・・・っ、ついて来るな!することは沢山あるだろう!?見張らずとも私は逃げない、ここで死ぬのはとっくに覚悟している!」
      吼えながら振り返るとケ芝は戸惑ったように眉をハの字にしていた。
      「・・・知っています。」
      「すぐ戻る、行け。」
      「将軍・・・」
      「行けと言っているだろう!?」
      これ以上ケ芝の顔が見れなくて彼に背を向けた。苦しい。
      「将軍、・・・俺は」
      言うな、行けったら。
      「俺は・・・・趙将軍、あなたがー・・あなたの事が、好きです。」
      「ーだからなんだ。」
      そんな事、とっくに知ってる。何故今そんなことを言うんだ、これ以上苦しめるな。
      「好きですー・・。」
      「言うな。」
      「好きなんです」
      やめてくれ。
      「私はお前なんか好きじゃない!私は男だしお前も男だろう。馬鹿な事を言ってる暇があれば少しは敵情を探れ。行け!」
      「−・・・・・はい。」
      ざっと土を踏む音がして、振り返った。そこには、小さくなって行くケ芝の背中があった。
      「・・・・・・・・っっ!」
      苦しい。苦しい。何もかも上手くいかない。これ以上苦しめるな、これ以上心をかき乱さないでくれ、ケ芝ー・・・・。

       城内に戻ってすぐの事だった。ケ芝が出陣要請してきたのは。
      どうしてだ、どうして私の側から離れようとする?私が・・・邪見にお前の気持ちを否定したからか?
     「将軍、我々はお側を離れます。戦って死ぬのが男の誇りだとあなたに教わった。あなたの名のもとに
       山を下り突撃し、曹嬰を打ちます。趙雲の兵として生き・・・死しても魂はお仕えします。
       将軍、どうか我々に命令を!」
      ケ芝の目は澄んでいた。私を少しも批難せず変わらぬ愛情を持った瞳だったが、その顔には悲しみに濡れた涙が一筋
      流れていた。
       私のせいか、私のせいでお前は今から死にに行くのか。
      呆然としていると、兄上に小さく揺すられ「子龍・・」と気遣わしげに声をかけられた。
      「・・・・・お前達を率いて、勝利に導く事はかなわぬがー・・・死んでも異郷の地の亡霊などにはしない。
       では、・・・命ずる。行け、蜀の国の為に戦え」
      「はい、将軍!」
      震える声に、勇気付けるように強い声で返事が返る。
      ・・・・・こんな一言で、お前は私に命を差し出したのか、ケ芝。
       ふわふわした足取りで外に用意された椅子へと座る、そこからは戦場が一望できた。前線で騎乗したケ芝が見える。
      否、ケ芝しか見えなかった。彼は何度も振り向き私を見つめ、励ますように元気付けるように笑いかけてくれた。
       どうしてー・・・・どうして、私にそんなことができるんだ。
      落ち着かない。思わず立ち上がり駆け出そうとした私を慌てて兄上が椅子に引き戻す。そこで初めて自分が
      立ち上がったことに気付いた。あぁ、いけない。冷静に・・・冷静にならねば。
      強く手を握り締め見つめていると、ケ芝がとうとう馬を進ませた。思わずまた立ち上がり、また兄上に戻される。
      空気を震わす鼓よりも強く、己の拍動が聞こえる。まるで心臓が耳にあるみたいだ。
      「・・・行くな。」
      唇を震わせながら思わず呟いた。
      「子龍?」
      「行くな・・・行くな、行くなケ芝・・・・私を、一人にしないでくれー・・・」
      「・・・子龍 」
      「兄上・・・。」
      年甲斐も無くボロボロと涙を流す私を痛ましそうに見つめると、兄上はきつく抱きしめてくれた。
      「ごめん、ごめんな子龍」
      「うぅー・・・・。」
      「ごめん・・・」
      兄上の声も震えていた。抱きしめる手が痛いくらいに強い、兄上もまた、泣いているようだった。
    

 


       目を開けると、そこは死体の転がる戦場でも、地獄でもなかった。
      目の前に広がる無慈悲な鉄格子に、自分の居場所を知る。自分の体温と同じひやりとした石床に頬を摺り寄せる。
      自分の居場所にはこれ以上無いと思うほどぴったりの場所だが、もう死んでしまいたかった。生きていても辛いばかりだ。
      死んだら、ケ芝に会えるだろうか?・・・会っては、くれないかもしれない。それに自分は確実に地獄に行くだろう。
      しくりと痛む矢傷は未だに熱を持っている。でも、もう熱さはいらない。
      治りかけている傷に深く己の親指を突き刺すと、思わず咽て口から暖かい血が滲み出てきた。
      これが全部流れたら、その時はやっとこの苦しみから解放されるだろう。
      静かに目を閉じると、瞼に押されて涙が流れた。まだ涙が残っていたのか。
      もし死んでケ芝と同じところにいけたら、謝りたい。許してほしいなんて思わない、ただ・・一度も言わなかった自分の気持ちを
      捧げたかった。
      「−・・・・ケ芝」
      名前を呟くだけで、骨まで冷えていた体が、温かく感じるようだった。
      わかっていたくせに、自分の気持ちにも気付いていたくせに常識に囚われていて気付かないフリをしていた。
      心に余裕が無かったのは確かだが、気持ちを認めていれば、こんなに悲しくは無かったのかもしれない。こんなに苦しむ事も
      なかったのかもしれない。
       一番大事な人を傷つけて・・・命どころか、心まで、誰一人救えず・・・・
      「ケ芝・・・・・ケ芝・・。」
      「はい、将軍・・・・・お側に。」
       ・・・・声が?
      趙雲は閉じていた瞳を開けると、そろりと床石から頭を上げて仰ぎ見る。
      「将軍、遅くなりました。あなたを・・助けにきました。」
      そこには頭から血を流し折れた剣を握り締め、自分を見下ろすケ芝がいた。
      「助けに・・・?地獄にでなく?」
      なんという幻覚かと思いつつも呟くとケ芝は笑って見せた。
      「己が身に代えてもあなたを地獄になど行かせませんよ。もし将軍が行きたいのでしたら、俺は共をするのみです。」
      ケ芝は持っていた剣の柄で鍵を叩き壊すと手を差し伸べた。
      「どうぞ、将軍手を・・・・」
      恐る恐る手を乗せると、ぐっと捕まれた。頭が混乱する。確かに彼は爆発に巻き込まれて死んだはずなのに。瞬きすら
      せず見つめていたのだから、見間違えるはずは無かったのに・・。
      「ケ芝!!」
      生きている、彼は生きて目の前にいる。これほど心安らぐ事があるだろうか。
      ケ芝に手を引かれるままに彼に抱きつくと、また涙が溢れた。
      「あんまり無くと目が溶けますよ将軍」
      少し笑いながらそういうケ芝が手を離したら消えてしまいそうで、強く強く抱きしめると、声を上げて泣いた。
      敵に見つかるかもしれないのに、ケ芝は落ち着くまで静かに抱きしめ返してくれた。
      「ケ芝、あのな・・私はお前に一度嘘をついたんだ。お前なんか好きじゃないと言ったが、私はずっと前から
       お前だけを愛していたよ。」
      「・・・−知ってましたよ。」
      ケ芝は嬉しそうに、くすぐったそうに笑ってそう言った。




 


      *あとがき*

      ブルーレイだと戦場にいるケ芝を見つめる趙雲が結構なボロ泣きしてると聞いたんで、勝手に妄想。

 

 

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